命を育む、目撃する、仲間づくり

社会に役に立つ事業で起業したいと思っているけれど、現状はコアとなる事業はなにも浮かんでいないし、起業に関する行動はしていない。

個人事業主として働いているのがせいぜいだ。

元々は自身が生きにくかった頃の原体験から、子どものケアや教育に目を向けていた。

教員免許は持っていたが、第二子妊娠中から産後に保育士試験を受け、資格もとっている。

単純に子どもの成長を知りたいから、試験を受けてみようという動機だ。

子どもオタクになりつつあったけれど、自分の子どもといると様々な困難にぶつかることもあり、昔のように子ども好きです!とは言いにくくなった。

自身の家庭的な事情により、私は第一子に仲間を作りたいというエゴで兄弟を産んでいった。

エゴだ。

ただ、子ども達にとってお互いが相談相手になればいいなぁー、私が死ぬくらいの時に相談でいる関係でいてくれたらいいなぁーという希望もある。

これもエゴだ。

仲間って必要だよな、でも、作るのって難しいよね、と思っている。

進学や就職や結婚や、死別や……。

別れはいろんなタイミングである。

仲間や友達を作るのは本人の仕事だから私が出来るのは兄弟としての仲間を産むことくらい。

一人一人に金はたくさん出せないかもだけど、生命を育むために時間と手はかけるわ、という感じかもしれない。

と前置きはともかく、いろんな人の仲間でありたい。と思っているのだ。

そんなプロジェクトを作れたらいいと思っている。

それは、何かをしてあげるとかしてもらうとかじゃなく、互いを知るってだけでもいい。

お互いの生命体としての歩みを時々見るってだけでいい。

昔学校で居場所がなかったと感じた時は、保健室やバイト先での出会いが貴重だった。

誰かと何気ない話をするというだけで、なんかいい感じになれるときがある。

自分という生き物をちゃんと大切にしよう命を尊重しよう、と思えるときがある。

コーチングや教育をしたいわけじゃない。

私は何も教えられないから。

人生や命の歩みを応援したいだけ。

子どもを産んできて、育てていて、命の重さを知った。

こちらの意向で産んだので、今楽しい?と尋ねるようにしている。

楽しい、生まれてよかったと言われて、安心する。

親はグラデーションがありつつも、みな毒を持つと思う。

私も毒親だと思うから、エゴで産んでいる。

さらに言えば上の世代もみな毒だらけだ。

でも、悪くはない。

犯罪行為で傷つけた場合は例外だけれど、愛があるならば、いつかは解毒していける。

と思ってる。

まとまらない話だけれど、とにかく、生まれた命はみんな、同じだけ大切で愛おしい。

その命をどう使うかは結局本人次第だけれど。

迷ったなら、あなたが生きてること確認してあげるよ、大切だって伝えてあげるよって、思ってしまう。

事業にするまでは、道のりが長そうだけれど、占いやライティング、創作などとは別軸で作れたらいいとは思っている。

曖昧さ耐性が弱くなる社会や環境が作られやすい土台があると感じていて、私自身も時間的な余裕がなくなった頃から即断即決を強いられてきたと感じている。

もう少しラフでてきとーに、曖昧さを残すことをよしとしながら、色んなものを楽しんでいたはずなのに、物事に意味を考えるようになってしまった。

教育云々と言い出す前は、文学部かつ、マイナーな学科だったゆえに、学びに関して意味や目的、役立つかどうかは全く度外していたのに、いざ社会に出るとなれば及び腰で学びに資格という武器を付随させたがる。

ああ、弱いなぁとは思う。

曖昧でいいんだよ、結果なんて出さなくても、生まれた時点で成功してるんだよ。

自戒を込めて、自分へのエールとしても、そう思っている。