私はミニマリストを目指していますが、かつてマキシマリストでした。
モノへ執着があり物を捨てるのは苦手だったし、何かをくれると人から言われれば断れないタイプでした。
もらえるモノを断る発想もなく、モノをたくさん持っているのは素晴らしくて、モノは自分の有能感を強めてくれるものだと思っていました。
マキシマリストの私がミニマリストを目指す過程で、行った断捨離についてご紹介していきます。
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おさがりもらいものウェルカム!取っておく系マキシマリスト
私は特定のモノを持ち歩く性質が幼少の頃からあったようで、回り方すれば私はモノをたくさん所持して、とっておく、モノが好きな子どもといった印象が強かったようです。
当時の私は満たされない感じや不安感があったのだろうな~と今では思います。
大人に囲まれて育った子どもだったので、身を護る防具がモノだったのかもしれません。
モノに囲まれていると安心してしました。
特に思春期の頃は1000冊以上のコミックスや、着終われないほどの古い服に囲まれた部屋で過ごしていた記憶があります。
モノで身を守っていたのだと思いますし、そんな風にモノに囲まれていた時期は人生の中で一番太っていた時期でもありました。
現在よりも15キロ以上は体重があり、当時自覚はありませんでしたが、残っているわずかな写真を見ると、むくみのある不健康な太り方をしていたようです。
片付けや掃除そのものは好きでしたが、見えないところに隠れていればOKな片付けをしていたので、収納の中の総量はパンパンで戸を開ければ溢れんばかり・・・。
成長過程での不安定な時期でもありつつ、家の中でもコミュニケーション不足を感じていて色々な意味で、守りを固めていた時期です。
特別不幸ではないけれど、どこか悶々としてスッキリしない時期でした。
お腹が空いているわけでもないのに、どこか満たされなくて食べていたせいで、増えた体重は中々減らずにこのとき初めて、体重に関して健康診断で注意を受ける経験をしました。
騙しだまし生きてはいたものの大人になっていくにつれ課題が変化する中で、モノに囲まれていて不安をやる過ごす方法では立ちいかなくなることも多かったです。
満たされているはずなのに、心のどこかに足りない感じや焦りを常に感じてしました。
モノに対してもっと欲しいといった感情だけではなくて、今の自分は足りない、もっと頑張らないと、もっともっと、と。
自分の中身を見ないで、外に何かを探し続ける感覚です。
結局、挫折の経験によりこれまでの自分を変えようをあがき、結果大きく体調を崩しました。
マキシマリスト・ときめきを知る
急に心臓がバクバクしたり、寝てしまうと何かとても恐ろしいものがやって来る気がしたりして、眠れなくなる日々・・・。
自分の本音を探すために、自分を見つめ直す段階で、初めてモノを捨てる片付けを経験しました。
全て把握して理解していなくちゃいけない、と思って苦しむなら捨ててもいい。
私はモノだけではなくて、経験もストックして把握していなければいけない、と思っていました。
捨ててしまって楽になろう、もっと自由になりたい。
本音が見えてきて、さらに人生のパートナーが欲しい、と思ったことをきっかけに人生最大の断捨離をしました。
近藤麻理恵さんのときめきの片付けを参考に、ときめくかどうかで身の回りのモノを判断して、初めて自分からモノを捨てる経験をします。
自分にとっては大きな一歩ですが、端から見ればまだまだマキシマリストだったと思います。
ただ自由に手放してもいいんだ、自分で選んでいいんだ。
という経験は人生の中でずっと人の目や意向を気にしていた私からすれば、目からうろこでした。
ときどき大人がとても不機嫌になるのを感じて、その状態が一番嫌だった子どもだったので、誰かの不機嫌の波が来たときに備えるためにモノやそれこそ脂肪で防御を固めていた気がします。
どの家庭にも大なり小なり問題があって、その問題にも波があると思いますが、家庭内の良くない波が来ていた時期と自分自身の不安定さが重なり、心に影を落としていたようでした。
この後、大人の反抗期を経て親や周囲の人と適度な距離を置くレッスンをしていきます。
そのときのことはまた今度書くかもしれません・・・。
らしさの断捨離で自分軸を探す
結婚、出産を経験し、その後悶々と子育てをしている中で、第3子出産に際してもう一度大きな断捨離を決行しました。
このときも、何か足りない感じを感じていたので、突破口としての断捨離です。
私は価値観の強要を感じたり、どこか人と同調しなければいけないといった環境にいたりすると苦しむ傾向にあります。
いわゆる「~らしさの病」を自分から切り離したくて、他者の課題と自分の課題を分離する「嫌われる勇気」の本や精神科医や臨床心理士の本などを経て、このとき初めて「断捨離」の流行を起こしたやましたひでこさんの本を読んでみました。
そしてその精神性に感銘を受けたのです。
他人軸ではなく、自分軸で判断する。
今必要なモノを選びぬく。
自分がご機嫌になれる空間をクリエイトするための、断捨離。
といった考えが心にしみ込みました。
さらに佐々木典士さんの著作を読んで衝撃を受けて、行動への起爆剤となったのです。
新しいアイデアがもらえたときには、すぐに行動を起こしたくなるので、ちょうど妊娠安定期に入ったところだったので、すぐに服を断捨離しました。
衣替えで恨み節
当時新品・中古問わず服をもらうことが多かったので、好みではない服がクローゼットにしまわれていたり、段ボールにしまわれていたりしました。
段ボールで見れば5箱分くらいが、感性に刺さらずあまり着たくない服です。
ただもらったものなので、くれたのに悪いな~といった思いで、捨てられずにいました。
もらいものは増えていくし、子ども服も増えていく。
衣替えのたびに悶々としていくのです・・・。
子どもが男女の兄妹だったので、おさがりもありつつ、それぞれの好みを反映させた服が増えます。
子どもの服も増えていくのに、自分の服も全く減らない、しかもあまり着たくない服だ、と思うと衣替シーズンはいつも気分がダダ下がりします。
誰を恨むわけでもないけれど、なんでこんなに服があるんだろう?
と恨み節で衣替えをする精神性は、非常に不健康でした。
疑問が湧きます。
そもそも残していく必要のあるおさがりとは?
その後、具体的なきっかけは覚えていないのですが、何か嫌な経験があって、憂さ晴らし半分気分転換半分で、服を捨て始めました。
おそらく、服にイヤな記憶が張りついているように感じて、視界から消したいと感じたのです。
若干疲れやストレスが溜まっていたのかもしれません。
どんどん服を捨てていきました。
一時、娘が大きくなったら着てくれないかな?
と思った服を残しておいた段階もありましたが、結局それはおさがりをくれた母や目上の親族と同じことをしている気がしました。
同性の子どもがいると、自分はもう着られないけれど、思い入れのある服で捨てるのは忍びないので、まだ着られそうな年齢の子がいれば着て欲しい、といった気持ちが分かってきます。
でも、そもそも残しておくほどのもの?
とも思いました。
流行は回っているから古い服も利用できるし、流行とは違ってもレトロでカワイイ感覚もあるかもしれない。
ただそれは本人がそういう系統が好きでこそ成り立つもの。
私は母や親戚からもらうタイトなスカートや形のカッチリと決まったセットアップなどが、好きではありませんでした。
妊娠出産、そして育児をしている中で着にくい服なので、いずれ着れるようになってもそれは数年後。
それに元々自分で選んだわけでも、お気に入りでもない服です。
迷いはありましたが、ありがとう、と服にお礼を言って捨てました。
私自身でかつてはお気に入りで来ていた服も、同じように娘に残したとしても、着れるのは数年後から10年後。
その間にいたむ可能性も高いし、綺麗にとっておく自信もない。
何より、自分はもう着たくない。
娘が着るのを見たいかと言われれば、どちらでもいい。
娘に託して判断を先延ばしにするのはやめよう、と思いました。
こうして、自分がかつて気に入っていたけれど、今は着らない服ともサヨナラしました。
ボーダーに張り付いた自己イメージを断捨離
感覚が掴めてくると、どんどん勢いがついてきて、今着たい服、近い将来着る予定の服だけを残して、段階的に捨てていきました。
ちょうど出産も控えていたので、乳児の授乳や育児を考え、可愛いけれど動きにくい服、機能性の低い服はサヨナラします。
ウェストが絞られる服は、産後ダイエットの励みにもなるので迷いがありましたが、動きやすさ重視で選びました。
ただ、動きやすいけれど好みじゃないものは断捨離していきます。
私の中では、ボーダーの服が元々は好きだったけれど、着すぎて好きではなくなった服の1つです。
ボーダーは私の中でどこか「ママ」っぽいので自分で買うことやもらうこともあり、第1子の子育て中からよく着ていましたが、だんだんそのママっぽさが嫌になり、受け付けなくなっていました。
最初はやるぞ!と母親であることが楽しかったのですが、育児は張り切ると沼です・・・。
ほどよく抜かないと、他人にも厳しくなってしまいます。
結局ボーダーは勝手なイメージに縛られて、好みもなにもなく、ただ着やすいので、着ていた状態です。
ママとしての作業服や仕事服としての側面が強く感じ、着たくなくなっていきました。
自分が好きな傾向×動きやすい服との兼ね合いで服を選ぼうと思い、傾向はナチュラルカラーのワイドパンツやシンプルだけどところどころにアクセントのあるトップス、ワンピースなどにしぼられました。
今を生きている子どもにフォーカス
服を選びぬいていく中で、子ども服の中にも、もうこれから生まれてくる子には着せたくないと感じる服も出てきます。
まだ着られるけれど、古びてきたし着せてこちらのテンションが上がるわけでもない服や、もらったけれど、着せにくい服、肌触りがあまり良くない服などは断捨離していきました。
当時、着ていない子ども服は倉庫にしまっていたこともあり、保存状態が良くない服もちらほら見受けられたので、特に赤ちゃんの肌着類はかなりの数捨てました。
肌着を着る期間はとても短いので、再利用したい気持ちはあるものの、新しく来る赤ちゃんに、何もこんな古びた状態の肌着着せることないな、と思ったのです。
とはいえ最初の子のときからの肌着や服は思い入れもあるので、捨てるとなると切なさもありました。
けれど今を生きている子ども達や今後やって来る新生児が大事なので、思い出は形として残しておく必要はないと感じました。
今になって第一子育児の大変さや思い入れにこだわっている場合ではない、と心を奮い立たせて、断捨離。
子ども服と自分の服を合わせれば段ボール6個分くらいの服を捨てることになりました。
服のリサイクルを行う場所に持っていったり、そのまま捨てたり、服の状態によって方法を手放しました。
かつてキロ単位で100円、500円などの査定を行う買取店に持っていったこともありますが、査定時間がかかる割にお金にはなりません。
ブランドものを出すわけではなかったので、買取店は利用しませんでした。
このとき、夫の服や私物にはノータッチ。
夫は私同様物持ちの良いタイプだったので、きっかけがない限りものを中々捨てません。
そこを指摘しても仕方ないので、夫のものには触れずに、自分だけどんどん服の断捨離をしていきました。
私の行動に驚きつつも、夫自身は当初何かアクションすることはありませんでした。
ただ、その後、私がどんどん他の私物をどんどん捨てていくのを見るにつれ、私のコーナーがスッキリするのを見てスイッチが入ったようです。
古い服や古い私物から、片付けを始めるようになりました。
このとき子どものオモチャ類や絵本類には着手しませんでしたが、後に引っ越しするとなったときに子どもたちに聞いてみたところ、「いらない、もういい」と言われるものが出てきたので、ホビー類や絵本類は宅配買取りに出しました。
風穴をあけて運を動かし自由を手に入れる
私自身はとりあえず服から取り掛かりその後、書類や本や家具などにまで手を伸ばしていきます。
この時点ですでに、大量の服を捨てて自分が本当に好きな服を確認しました。
過去1回の大きな断捨離のときに感じた心地よさや、気持ちの良い空気が通る感じがあって、何でもできる様な気分でした。
なかなか気づけませんでしたが、空間=自由なんですよね。
引っ越ししたての家のように、どんな風にでもアレンジ可能!
コロナ禍や出産、転勤などにより、家の中を改善する必要も出てきたこともあり、結果としてタイミングは最高でした。
このとき大きな断捨離をして、今家族で過ごせていることで自分はすごく満たされている。
これ以上そんなに欲しいものはないな、と感じました。
これから新しい経験もしていきたいけれど。
少なくとも今が不満で、不全だから何かを求めるといった感覚はなくなりました。
今もミニマリストには満たない状態ですが、片付けのストレスはだんだん減ってきています。
そして自分軸や自分の芯がとり戻されていく感覚が持てるように変化しました。
マイペースではあるものの、何か嫌なことがあれば悶々して引きずってしまう性格でしたが、あまり気にしなくなりました。
もちろん、定着して消えにくい思いもありますが、感情の新陳代謝も活発になった印象です。
運動は運を動かす、と一部で言われるように、モノを動かすことも運を動かすと感じています。
ミニマリスト未満で今も片付け中
現在も断捨離の進行形ですし、自信を持ってミニマリストを名乗れるほど身の回りはスッキリとはしていません。
とはいえ、ここ3年間で住まいは随分コンパクトになりました。
結婚当初築40年程度の集合住宅に住んでいたときには、古い家だったため押し入れなどの収納が非常に多く、さらに倉庫がついていました。
収納という収納にモノを詰め込めるだけ詰め込んで、さらに本棚や棚などを買い足し数年住んでいましたが・・・。
転勤で引っ越すにあたり、倉庫や押し入れ収納がなくなったため、先述の断捨離が効果を発揮しました。
服から始まった断捨離はどんどん他のモノにも発展していき、しまうものが無くなった本棚も棚もどんどん捨てていきました。
引っ越し前の見積もりでは「引っ越ししてたですか?」と言われるほど、収納の数が減っていました。
今もまた引っ越しを控えており、収納や平米数がさらに減る予定なので現在も断捨離に励んでいます。
家族が増えるのに平米数や収納が減るのはチャレンジングではありますが、楽しんでいきたいところです。
モノを無理矢理に捨てるではなくて、自分なり・家族なりの最適化を目指して断捨離中です。