子育てには舞台裏がないらしい

育児の大変さはバックヤードがないことなのかもしれない。という話。

育児は舞台裏のない、舞台に立ち続けることかもしれないという話。

子どもが好きだと思っていたし、子育ては向いているかも?と思ったが、実際に子どもを持ったら違和感満載で驚いた。

仕事とプライベートで、同じように子どもがいる空間でも、疲弊度が違うようだ。

当たり前かもしれないけれど、行動した結果でしか学べない単細胞なので、行動した結果学んでいる。

子どもがいる人は、どこか世界との境界線が曖昧になる。

公私混同しやすい仕事、自営業とも近い感覚だ。

子どもを持ったとたんに、自分の存在が組織の一部ではなく、なぜか子どもと共に世界の表に立つ人間にされてしまう。

隠れていたい、人に声をかけられたくない人間からすると、これはとても困った。

例えば、子どもがいる人には話しかけてもいい、何を言ってもいいというような、境界線が消える瞬間がある。

さらに子どもと似てる似てないなど、ルックスに関係することを初めましての人から平気で口にされるのには、驚く。

人の顔のことを初対面ではあまり口にしないと思うけれど、子どもを介すとあっさり境界線が失われる。

子ども自身が境界線を壊すこともあるので、面倒くさがり屋の私からすると困ることも多かった。

そんな風に、親子というパッケージは、ほとんどの人が経験しているがゆえに、公私の境界線を失いがちだ。

これを利用するならば、探偵するときとかは子連れがいいかもな、と思う。一人でいるよりも遥かに世間に塗れやすいから。

さらに子どもといると、良くも悪くも常に世間から審査されるのだ。

例えば単身で行って保育士試験の申し込みをするだけならば、本来話しかけられようもない。

ただ、子どもをつれて、窓口で支払いをしたら、お子さんを預けて保育士として働くんですか?とやや感情的に聞かれることがあった。

まーそうかもですねーと流したけれど、内心は、仕事の幅を広げるだけなんだけどな?まだ受かってもないんだけどな?と思った。

素朴な疑問をぶつけてきたのは別にいいけれど、子どもがいるだけで、生き方を審査されているなぁーという機会が増えたなと思う。

それ自体は別にいい。審査も自由だと思う。

ただ、審査する際に「親」というものに対して理想的な親なのか、反面教師なのかとフィルターをかけていることが多いなと感じることがある。

私自身も例外じゃない。

親がしてくれたから、親はこうあるべき。

親がこうしてくれなかったのが、自分は悲しいから、こんな親はダメだとか。

こんな風に、子ども目線のあれこれやそれこれはおびただしくあるが、親目線を持つ人の意見は絶対量がまだまだ少ない。

親目線の人は責任を問われるのが怖くてなかなか声が出せないからだ。声をあげたとたんに、毒親扱いされるからだ。

とても親に対する信仰が強いな、と感じる。

現在進行形の「子ども本人」ならばいいが、世間には「過去の子どもたち」が多すぎる。

過去を捨てていない大人が多すぎる。

誰もが昔は子どもだったが、長生きすれば誰もが大人になる。

大人であることが悲しいことのように、子ども時代の過去は美しいように美化しがちだ。

あるいは、取り返しようもない大事な時期を台無しにしたと、過去を人生のコアにしがちだ。

今がダメなのは過去のせいだと、曲解するのは簡単だから。過去は戻れないがゆえにどうとでも語れる。

自分自身もそういう面はあるが、とりわけ親のことを思う時、彼らはバックヤードが与えられていなかったのだな、と思うと少しだけ理解しやすい。

親は舞台裏がない舞台を常に演じている。

世間の眼差しを受けるような表に立つ仕事の人もまた、舞台裏がほとんどない。

ただ覚悟を決めて表舞台に立つのとは異なり、子育てに関しては想定していた部分とは違うところで表に引っ張り出されるから困る。

例えば、子どもが話しかけられているのに、言葉が話せないうちは、翻訳しなければいけない。

ん~?私に話しかけられてないよね?と思いつつも、一応答えなければいけない。

コミュニケーションが苦手な身からすると、どう答えればいい?どう答えれば、相手も満足するんだろう?と思うことが多い。

できればサービスしたい、サービストークがしたい、という思いがあるからだ。

いくつかの選択肢の中から、機会によって答えを変えてみても、結局空回って疲弊してしまっていた。

ただ、こういうコミュニケーションには、子どもを通して自身の過去を振り返っている方が、その時の想いを吐露したい思いや、子育て中の親を励ましたい、という思いがある。

エールの面もあるといことにも、もちろん気づいているし、見守られているな、支援してもらっているな、とは分かるのだ。

一方で、子どもの動きや声が許せない人が一定数いることも分かっている。

こんな風に、育児に関しては子どもの世話以外の部分で意外なことが多かった。

これまでマイペースにしか生きれなかった人間からすると、親っぽい会話に参加することは演技以外のなにものでもない。

どこか適当に、親を演じながら暮らすことには慣れてきたけれど、舞台裏がないのは時に大変だ。

病床としての家、食堂としての家、遊戯場としての家。

子育てにおいてはプライベート空間であるはずの家は、仕事場となる。舞台裏はない。バックヤードは用意されていないので、作るしかない。

ただ、だからと言って誰かを責めようとは思わない。

責める前に、過去を捨てるし、自分を包んでいる殻を捨てる。

親を思う時、舞台裏がなかったんだな、と思うと心は少し安らかになる。