成熟したいと思っている。
熟したいと思っているけれど、日本ではあまり精神的・肉体的に成熟したモデルケースがとても少ないと感じているのだ。
若くいる、アンチエイジングの例はたくさんあるのに、熟し方・老い方に関しては、進んで摂取しに行こうとしても、絶対量は少ない。
まだまだ日本では幼さ賛美が強くて、未成熟であることに価値を置く文化が根強いからかもしれない。
個人的には子どもの頃からずーっと熟したいと思っているのに、周りや世間を見ても年を取ることにルンルンしている人があまりいない印象だ。
年を取ることは熟すことではなくて、もう年だから、老化するという意味合いで考えられがちだ。
単に年を取るだけでは熟せないのか?とこの頃思う。
そもそも熟すとはなんだろう?
熟すという言葉には、柔らかさや芳醇さを感じる。年代物ワインのまろみがイメージできるかもしれない。
人柄に落とし込むなら、多様性を受け入れるおおらかさやしなやかさをイメージする。
どうすれば、熟せる?
何度も何度もトライアンドエラーを繰り返し、思考を醸造していけば、熟せるのか?
一方で未成熟さはそこまで美しいのか?
未成熟さにこだわることにメリットがなければ、きっとみんながこぞってアンチエイジングはしないと思う。
例えば可能性を秘めているという意味では美しいかもしれない。
自分は優れた個体だと、可能性を秘めているとアピールするのには、未成熟さを表現することには、メリットがあるのかもしれない。
未成熟なものや可能性それ単体としては美しいけれど、大人が未成熟な存在に対して、未成熟な感性で関わろうとすることには、私自身は悲観的だ。
対未成年なら尚更、法定的に成人した人はやはり大人としての責任がともなうし、心は子どものままだなんて方便は使えない。
そんな方便を使うのは成人した側ばかりだからだ。未成年や本来的に未成熟な人にとっては、法定上の成人は決して同等の立場ではない。
先輩であり、導いてくれる存在として期待する。
にも関わらず大人側が同化しようもない対象に対して、自身の過去をよすがに恣意的に同化しようとしているようにも見えることがたる。
ロマンスの皮をかぶった搾取もある。
どうやら、成熟した大人としてのモデルケースになるよりも、子どもと同列の立場でいたほうが楽な文化的な土壌があるらしい。
私個人はロリ・ショタの物語や文化をファンタジーとしては理解できるし否定もしないが、肉体を持つ自分としてのリアルな感覚としては「ない」。ときめきもなければ、ロマンス要素も感じられない。
興味もほとんどない。
かつて自分がより未熟だった過去につながるから、興味が持てないのだ。未成熟な存在たちは保護する存在でしかない。
ただ、この国ではロマンスというベールに包めば、表現の自由を盾にして、それらが「あり」となりやすい文化の土壌はある。
例えば、取締られていない広告や商品を見てもそう感じる。
みんなそれぞれがどこか、大人になることに自信がないからかもしれない。
子どもへ自身の理想を投影したがる、未成熟な人を自身を肯定してくれる存在として仮定したがる傾向がある。
母性神話や過保護な家庭観が賛美されていた歴史も背景としてあるのかな思う。
家の機能が過大評価されていて時代の残滓が、きっと幼稚さ、幼さをもてはやすことを助長していると思う。
今の大人はかつての子どもだから、当時の時代を反映して少し後に大人になる。
例えばなんでも許す母親と、なんでも責任を取る父親にずっと守られているままでいたいなら、体は大人でもまたまだ子どものままでいたくなるのかもしれない。
私は自分の幼稚さへの自覚があるからこそ、成熟に憧れるし、成熟したいと思っている。
心持ちとしては穏やかでいたいのに、性質としてはどうしても動かずにいられない多動な面が、自身の幼稚さだと感じているからだ。
この国は完全な高齢社会なのに、思考や文化面で成熟していない部分があって、かなり滑稽な構図になる。どこかぽっかりと抜けているし、どこかねじれている。
コミックやアニメの視聴者は明らかに高齢者が多いはずなのに、描かれている存在は未成年者が多い。
未成熟さを描くことは楽だからなのか、可能性を描きやすからなのか。私個人はだんだん食傷してきている。
未成熟さは一瞬の輝きだからこそ、いい。例えば子ども成長の一時、その時にしか見えない姿が素晴らしい。
未成熟な時期は去るから美しいはずが、人生が長いこともあるせいで色々な面で延命されている。未成熟な時期もまた、中々去らないのかもしれない。
選択肢の少なさや上の世代のモデルケースの一元化によって、多様性がない物語が量産されている結果なのかもしれない。その部分は中々苦しいし、個人的にも課題を感じている。
現状では好んで未成熟でいることが、責任から逃れるための隠れ蓑のようにも見えてしまう。
そんな滑稽さは研究対象としては面白い。
けれど、ここで受胎や子孫繁栄などの、生物学を突然持ち出すとまた混乱する。
未成熟なもののほうが受胎性が高いとか、そういう意味で言い訳を使い出すのは、やっぱり滑稽だ。
生物学的に見れば、卵子も精子も、そもそも細胞自体が若い方がいいに決まっている。ただ、本来はそこから発展して、親しい人、愛おしい人、その人の細胞であるから意味があるという本人意識があるのが文化的な人間だと思う。
そこを度外視して持ち出すとすれば、どこか恣意的で幼稚だ。
とはいっても、母親に甘え続ける文化がある以上、甘えん坊が多い情勢は続くのかなとは思う。
成熟しやすい風土がないからだ。成熟することにメリットがない風土だからだと思う。
精神的に自立する時には、想像上で一度、親を殺すものだと思う。
親の価値観と分離する意味での親殺しが必要だ。
本当の殺しではなくて、精神的なもの。
神話の中にもある親殺しは、古来よりの通過儀礼だと思う。河合隼雄先生の書籍の中でも、親殺しの話が出てきていた。
私は、分離には痛みがともなうと経験と心理学の学習によって学んだ。
けれど、今はあえて親と離れないで親と同化したままいることや、親(その価値観)を殺さないままでもいいという文化が生まれてきている気がする。
多様性に対しては肯定的な面もあるが、親自身としての目線では、やめて欲しいと思っている。
親からであれ子からであれ、ベタベタされるのがいやだからだ。
我が子たちには、しっかりと私から分離して欲しい。
私個人は親でもあるから、想像上で親として殺してもらってもいい。分離のために子どもと闘ってもいいと思っている。
子ども目線であれば、母親のことは愛していたから、一体化していたいという望みはあった。
ただ、自分が自分として生きるために、苦しみながら自立してきている。
成熟のためには、自立の成功失敗も含めて、挑戦が必要なのかもしれない。
まだまだ道半ばだ。