余白がこわい?話。
こと日本画の世界では余白が重要視されているし、日本庭園の世界でも余白は大事だ。
余白で空間に粋を感じさせるとか、命を宿すとか、さまざまな表現や使い方がある。
余白を制することは、精神的な成熟にも通ずるも個人的に思うのだ。
余白を余白のまま受け入れるのは、慣れと訓練と、持ち前の性格と、と色々な兼ね合いが必要だと感じている。
今の私は余白がこわい。
狭い部屋にベッドを置き、机を置き、本棚を置き、とそんな生活をしていたことがある。ハンガーラックに囲まれるような部屋で暮らしていたこともある。
大量な本に囲まれているだけで幸せだったしここから動かなくていいとも思えていたこともある。
ものに囲まれていると、自分の輪郭がハッキリしないので自分を直視しなくてすむ。
断捨離やミニマリズムの実践は自分の感覚を取り戻す作業だから、自分や自分と何かの関係を、「ちゃんと見る」ためのものだ。
自分の感覚を取り戻し、関係性を「ちゃんと見る」ことにより、この関係は不要かもしれない、と疑うことがしばしばある。
断捨離対象がものではなくて、人との関係だったと思い、人と別れることもあるようだ。
断捨離もミニマリズムの実践も余白を作り、楽しむ余裕を作る作業だと思う。
余白を作ろうとするのが、断捨離やミニマリズムだけれど、果たして私は余白に耐えられるのか?と思っている。
暇な時間は多すぎても少なすぎてもストレスがかかるという。
少し前の私は常に何かを目指していなければいけなくて、目標を達成しなければいけない、と思っていた。
これを断捨離やミニマリズムの実践に当てはめるのは、ナンセンスだ。
断捨離やミニマリズムは生活や人生だから、死ぬまで終わりなんてないし、達成し得ないから。
本来なら、断捨離は人生レベルの実践だとか、ミニマリズムは人生最適化の方法だとかは思わない方が幸せなのかもしれない、と思う。
意識しないままに、するすると生きいける方がいい。
人生のどこかにつまずきがあるからこそ、断捨離やミニマリズムに救いを求めるのだから。
片付けをあえて意識している。この時点で、私はナチュラルに片付けが出来ている人よりも遅れるかたちで、後天的な技術として片付けを取得しているのだと思う。
不要なものをそもそも買わない才能があれば、片付けの手間も増えない。
断捨離でいうところの、物が入ってくる入り口を「断つ」という部分だ。
私はその部分が弱いので、何度も繰り返して学習している。
そして、いらない物を手放した後の余白を楽しむ心の余裕がまだない。
余白ができたのに、何かで埋めないのは罪だとも時々思う。
この思考は時間の使い方にも現れると思うのだ。
余裕のある雰囲気の人、余裕を楽しめる人が好きだし憧れる。
親世代は忙しなかったし今も忙しない。単純に私の親が忙しないだけかもしれない。
あるいは社会的な圧力に苦しんだ結果かもしれない。
家事をしない言い訳がしたいから、仕事したい、家が汚くても許される気がするから。
とかつて母が言っていたのを聞いて、複雑な思いを持ったのを覚えている。
家事をしないことを誰が責めるわけでもない。
少なくとも私は責めたことがない。
家での片付けや掃除が得意なのか、外で人と作業をするのが得意なのか。というような得意分野が違うというだけの話なのに、家事と主婦業、外に働きに行くことの優劣のような話にすり替わってしまう。
根深い自己卑下文化があると感じる。
そして、無自覚にその自己卑下の眼差しのまま、他の人へも献身的に動けと求める文化もあると思う。
硬直した社会システムも一因かもしれない。
余裕があっていいんだよ。
余白を楽しんだっていいんだよ。
余裕なくガシガシ動くことが美徳だという世界も一つあるけれど、本来はそれが好きかどうかだけ。
そこに未来への学びがあるかどうかだけ。
いつまでもガシガシ動いてはいられない。
私はぐうたらだし、生きていることも面倒くさいと思ってしまうような人間だ。
にも関わらず!子どもが生まれたら、しっかりとした人にならなければいけないという無理なミッションを自分にかしていた。
どんなことにも訓練できる部分は確実にある。ただ、訓練だけでは本質的には変わらない部分もある。
生きていることはやっぱり面倒くさいし、飽きっぽいので子どもの挙動にすら飽きてくる。
それお兄ちゃんお姉ちゃんで見たわ、もういいわ、と何度も思うし、口にする。
自分のことは愛してるし、家族のことは愛してると思うけど飽きるし面倒くさいとは思う。
面倒くさがりながらも、余白作りを進めている。
余白を作った時に、入ってくるものを受け入れるのか拒否するのか。
今は過渡期として存分に困りたいと思っている。