ペーパーティーチャーであり続ける

私はペーパーティーチャーだ。

使わない教員免許を持っている。

子ども関係の仕事の延長で教員免許をとる気持ちになり、免許を手に入れていた。

選んだのが養護教諭であったのは、保健室が逃げ場だった時期があった原体験からだ。

自分が携われるのは子どもの心身のケアだと、意気込んでいたのだと思う。

ただ、教員になるための勉強から実習まではかなりの苦痛があった。

苦痛の中身は退屈なのでここでは端折るし、教員を目指したことは経験として、ネタとしては最高なので行動したことには後悔はない。

ただ、教員の日常的な業務は色々な状況下にいる子どもの心に寄り添えるのか疑問だった。

そもそも、教員は学校に通えている子にしか、関われないからだ。

そして、自分の学校の子にしか基本的には関わらない。

当時は実習で生命の誕生に関する授業をした。

触れたいところに触れないような性教育だと思いつつも、子どもを産んだ経験も育てたこともない私は語れるサンプルがそもそもなかった。

かなり、自分にがっかりした記憶がある。

経験をつみたいと思ったのは、がっかりしたからだ。

出産と育児、それをキャリアアップと表現する人はいるのだろうか?

今の日本ではキャリアの断絶と表現する人の方がまだ多そうだ。

でも、私はキャリアアップだと思っている。

知らないことを知る。

どんな局面でも、新たな体験はキャリアアップでしかないと思うからだ。

ただ、経験したあとで、教育や子ども関係におけるこれまでと同じ場所には戻ろうとは思えなくなってしまった。

性に関することは、センサティブだし、語りにくい部分が多い。

本来は、語ってもいい部分が歪められたポルノの影響により、奇妙な色がついている場合もある。

とはいえ、寝た子は起こすなという日本の性教育に関して、今は少し動きが出てきているようだ。

小学生の子どもたちはプライベートゾーンを大事にする学習をしているし、勝手に触れてはいけない、イヤならば触れされてはいけないと学んでいる。

一方で、学んでいない世代、自分の性を大切にしないことが当たり前だった世代が、取り残される面もあるのかもしれない。

自分の性を大切にできていないと、人の性に関しても大切にするのはおかしい、語るべきじゃないと言いたくなる。

自分をしっかりと満たさないと他者への愛は生まれないと思う。

自分の喉がとても渇いていて水が飲みたいのに、目の前の人に水をあげるのはなかなか難しいことだ。

その場ではこなせても、あとで揺り返しが来そうだと私は思ってしまう。

誰かが心地よさを与えてくれるわけじゃない。

何度も実験をした結果、心地よさを見つけていくものだ。

たとえば誰かと身体を重ねる心地よさはたしかにある。

その場合は体温や声、皮膚の刺激や感情。様々な要因が絡まるし、対人のことだから一回一回が奇跡のようなものだ。よいときもあれば、よくないときもある。

同様に丁寧に髪の毛をとかすとか、肌のケアをするのと同じように自分で触れて身体を心地よくしていく方法がある。

セルフプレジャーもまた、その一つだし決してタブーではない。

でも自分の言葉で説明できないと思えばそれはタブーになりうる。

私は物心ついた頃から、その方法を知っていたし悪いものだとは思っていなかった。

瞑想と同じようなもので、身体と心を整えるためのものだ。

そういうグッズを使うのも当たり前だと思っていた。さすがに、人には大っぴらにしないけれど。

私個人は性愛の話題に関してほとんどタブーがない。

自分の感覚やセンサーで、それは好きか嫌いかを判断して、相手に伝えるのが当たり前だと思っていたからだ。

自分の言葉で語れる自信があるかどうかで、タブーのあるなしが決まるのだと思う。

自己紹介記事で、恋愛や恋人の概念がないと書いたけれども、私は今Web上に恋愛小説を書いている。

恋愛が分からないからこそ、描いてみたいと好奇心が働くのだ。

そして恋愛を描くことは性も描くことであり、そうするとセンサティブな問題が立ちはだかると肌身に感じた。

例えば性行為の同意問題、避妊問題などがまず思い浮かぶ。

それ自体が問題なのではなくて、気にしなければ悪みたいな流れが問題だ。

それを描くのはかなりリスクがあるな、と感じていた。

結果的に現代劇ではほとんど同意かつ避妊をさせるという描写を入れている。

たとえ、話の流れに違和感があろうが、それは相手との関係を大切にするという要素に入ると思っているから。

コミックや動画、ゲームやアニメなどに含まれるいわゆる恋愛、性愛のファンタジーを、教材化する人がいる現実があるようだ。

創作物を見てどう感じるか自由だし、人生の糧にするのは自由だ。

でも、作り手には最低限の責任があるとは思っているので、どう描けばいい?とは常に問いかけている。

また、小説のほかに、恋愛コミックも描いてみて気づいたのは、没入感は小説の方が強いということだ。

コミックは主役が絵として描かれているので、客体化するけれど、小説では人称によっては主役との距離感が変わる。

一人称なら、読者と登場人物(語り部)の距離はとても近づく。

主役の五感を丁寧に描けば、より読み手の語感も刺激しやすいのかもしれない。

逆にコミックは物語やキャラクターを客観視しやすいので、さまざまな状況や考え、声を描きやすい。

性に関する教育なんて大それたことはしないけれど、小説やコミックを使って身体を大切にする描写を地道に描くのも、私個人の性の多様化への一つのアプローチだと感じている。

さらに私にとっては物語の主役の性(ジェンダーであり、サガ)を描くことで、自己認識や思考や幅を広げる実験でもあるのだ。

そうして私は今日もペーパーティーチャーであり続ける。

ABOUTこの記事をかいた人

たった一人分のサンプルでしかない人生を生きる人